プロフィール

大丈夫なの?チャラさが抜けない独身男が、41歳からのリスタート。目指せIT系・オジサン美容師・浜田裕樹のプロフィール

はじめまして いい歳こいてチャラさが抜けない美容師・浜田裕樹です。

私は,これまで20年以上ずーっと美容師をしてきましたが、

ただ今 絶賛プー太郎です。

現在、新型ウィルスの影響で(2020年4月現在) 美容室の開業がなかなか進まずに ステイホームで自粛しつつ 開業準備をしながら ITの世界の勉強中です。

高校卒業後ロンドンに 1年半留学し、帰国後は東京で半年間の引きこもり生活を

脱出したあと 美容師の下積み修行を約5年間、積みました。

現在は地元の石川県に戻り 今も美容師の業界にいます。

39歳の時、海外移住の夢のため

人生を賭けて2,000万円の貯金を持って

1ヶ月ハワイに準備に向かったのですが 

直前でビビってやめてしまいました。

これまでの人生で

夢・目標・彼女 を見失った自分が 

残ったお金 2,000万円を使って

なんのために?

どんなことを?

*どんなふうに?

これから生きていくのか!!を

ここから、自分の生い立ちや今までを振り返りながら綴っていきまーす

ロンドン留学

石川県の高校を卒業後、

田舎っぺの18歳が

ヘアメイクアーティストになりたくて

インターネットもない時代に単身、ロンドン留学に突撃しました。

誰一人知り合いもいない異国の地でしたが たくさんの出会いによって

たくさんの人たちに助けられ充実した日々を過ごしました。

そのロンドンで 出会った彼女が 日本に帰国することになり

自分も追いかけるように東京へ向かいました。

東京で日本の美容師免許を取得して

美容師としての成功を夢見て イケイケで上京した19歳の時の自分。

1920歳ごろ

しか〜し 現実は、まさかの

祖国ニッポンの東京が 外国のロンドンより 

全然、馴染めなくて

半年間の引きこもりに・・・

満員電車に、山のような人混み、狭い部屋、

ただただ圧倒されてしまった・・・

英語はなんとなくわかれば良かったけど、東京の標準語が 田舎っぺにはキツかったな〜)

人生で最悪の日

そんな引きこもり生活を

なんとかかんとか脱出して 第一歩を踏み出した 

初日。

兄が交通事故で亡くなった。

その日から 人生のすべてが変わった。

激変した価値観

共働きの両親、6歳上の兄のもと、1979年3月3日

女の子のお祭りの日・ひな祭りに 男として生まれちゃいました。

体が少し弱かったけど何不自由なく育ててもらい

思春期には 尾崎豊やLUNA SEAを聴きながら 松井秀喜さんの後輩として入った

中学の野球部で 坊主頭と鉄拳制裁に耐えながらも それなりに過ごしました。

当時、なぜか勉強ができてしまい 

国語 算数 理科 社会 英語の

5教科中3教科で100点をとって 自分のことを

『天才』と思い込んでしまい 大人を舐めてたクソガキが

地元の進学校に進みましたが

ほどなく 勉強からドロップアウトしていき  

女の子にモテたくて サッカーをはじめた 不純な動機の延長線上で 

(坊主頭だった中学校時代のトラウマもあり)

美容師になる!という夢を持ちました。

当時は、まだ美容師は 女性が多く(とくに田舎の地方では)

親が美容師でもない自分には ナ〜ンの情報もなくて 

どうやったら美容師になれるのか?が イマイチわかってなかったのに

どうせ目指すなら 世界でしょ!!と 

まったく根拠もない自信??なのかハッタリ??なのか

そのまま感じで

勝手に自分でロンドン留学を決めて 実際に実行してしまうような

自分勝手で 好き勝手

典型的な末っ子で 自由気ままな生き方をしていました。

うん。

そう。

あの日までは・・・

引きこもりの生活から脱出するきっかけをくれたのも兄だった。

生まれた時から 存在してくれて

ただそばにいてくれることが自体が 当たり前で

その当たり前だと思っていた 毎日が・・・

突然 終わった。

想像すらしたことがなかった世界が

いきなり始まった。

感じたことのない感情、

慟哭。

時間の感覚や視える色彩さえ訳もわからなくなって

ズレる感覚。麻痺する世界。

狂ってしまうけど変わらない事実。

変えられない現実。

見たことのない両親の姿・・・・

ずーっと癒えるコトのない傷。

いまだに 時々 堪らなくなる。

愛する人を突然失ったあの日から

それまでの自分の価値観は すべて変わってしまった。

本当に自分が大事なもの。

絶対に無くしたくないもの。

生きるコト

死ぬコト

2度と両親を悲しませたくないコト。

それ以外は 本当に何でもよくなった・・・

唯一の コト。

命日の1週間後、20歳になった自分。

周りの親戚は 地元に残り両親のそばにいることを 当然、勧めた。

母は壊れていた。

でも父親は 東京に行け と言った。

震えてたけど・・・ね。

このままでは 家族みんなが壊れることを 知っていたから。

父もギリギリだったのにね。

きっと。

それでも送り出してくれた父を尊敬する。

東京に戻った自分は 一人の時は 気が狂いそうになるけど

誰かと居ても この世の終わりになっちゃう状態だったから・・・・

ひたすら仕事をした。

兄が亡くなった年齢の「25歳」までに

自分が美容師として 必ず成功して両親のもとの戻るために。

絶対に。

その頃の自分は とことん体を疲れさせなきゃ

寝ることさえ できなかったなあ〜。

唯一、出来たのは 美容師の仕事だけだった。

ただただ ひたすら働くことだけ。 

少しでも眠るため だけに・・・

才能への絶望

今ならわかるけど

そんな落ち込んだ状態では 美容師は 上手くなりません!!

美容師はハッピーを生む仕事だから。

どっぷりダークサイドの闇の中からは 凄まじい作品は生まれたとしても

ある程度の余裕と愛のある生活からじゃないと

日常のハッピー!!は  きっと生まれません。

ましてや 不器用で 美容師では天才でもなかった 

当時の自分なんかには・・・

ただ必死でやればやるほど

努力しても努力しても

ぜんぜん思うようにいかない その頃の自分は

同期の中でも 美容技術のいろいろなテストに受かるのも 1番遅くて

落ちこぼれでした。

笑顔も少ない・・

焦る日々。

募る苛立ち。 イライラ・・・イライラ

自分の才能のなさを

呪った

絶望しかけていた。 

いや絶望していた。

諦められない理由

同期がまた一人また一人と

美容師を辞めていく。

自分より才能があったのに・・・

20人近くいたのに 1年で約半分。

4年後には4,5人になっていた。

今でこそ 美容師業界の環境は改善されたけど

いまだに 3年以内の離職率は60%以上、

昔は本当に ヤバかった

給料も働き方も。

世の中は カリスマ美容師ブームの真っ最中で すごい時代だった。

だから 狂ってた部分も多かった。

その結果 どんどんみんなが 美容師を辞めていった。

寂しいけど・・・

毎年、全国から東京には 夢を持った人が たくさん集まってきて

切磋琢磨する。

多分 他の業界も。

その夢を持った人たちが

本気で競い合って切磋琢磨する環境こそが

東京のレベルを ひき上げるんだと思う。

都会だから お洒落だから、勝手にレベルが上がるわけじゃない

そんな中、自分が生き残れたコトは

ただただ ラッキーだったから。

時代に恵まれ 支えてくれた周りの人たちに ホント恵まれた。

本当に感謝しかないです。

なんとか しがみついてでも ひたすら やり続けていただけ。

辞められない理由が、

諦められない理由が、自分にはあったからね。

自分が勝手に 「兄の分も」って思い込んで『想い』を背負っていたから。

両親の想いも。

自分の夢や想いだけだったら とっくに 心は折れていた。

多分。

結構、人って 大切な人のためなら

案外、苦手なことも 頑張れるみたいだね??

きっと。

無我夢中の日々

20歳〜24歳までは 

いわゆる美容師のアシスタントとして下積生活を経て

極貧の中、先輩の弁当の唐揚げを勝手に食べたりして 食い繋ぎ

(貧乏でも楽しかった!)

下積み修行時代

24歳〜25歳でまでの間は 育ててもらった美容室をあえて離れ

(他の環境でも 自分が美容師として通用するか試すため!!)

違う美容室でスタイリスト美容師として武者修行を積み

1日に2回 新宿と池袋で 「ホストやってみない?」って

スカウトされて 落ち込んだり、ギャル男に間違えられたり(ただの地黒

辛くも充実した東京生活を終え

25歳の時

何とか石川県に戻ってまいりました。

当時はお金も 地元に戻ったとはいえ 何のツテもなかったので

独立開業するのではなく 地元の有名美容室に再就職しました。

美容師業界あるあるですが

多少キャリアがあっても

有名店では 1から キャリアのやり直し!!

地元 石川県に戻って安心したのも束の間

また1から 0からのスタートでした。

とくに はじめの1年は 毎日地獄だった・・・

そこから 初めて美容師のコンテストに出させてもらったり

結果や実力は散々だったけど

少しずつ

また たくさんの周りの方々が助けてくれて

一つずつ 一つずつ経験を重ね

全国大会に出たり イタリアやロンドンにも勉強にいかせてもらい

美容師としての 青春を全力で過ごさせてもらいました。

イタリア・ミラノ研修

本当に 無我夢中の日々だった。

毎日、夜家に帰るのが24時より早いと 珍しく感じるぐらいだった。

気づけば あっという間に20代が終わっていて

あれよあれよという間に

店長になり

マネジャーにも、してもらい

35歳になっていた。

石川に戻って 10年が経っていました。

奇跡の1枚シリーズ

思い出した幼い頃の夢

ありがたいことに

毎日毎日

忙しい日を過ごさせてもらっていましたが

心も体も自分のキャパを超えていました。

たくさんのお客様 たくさんの後輩たちと接して

語ったり、共に過ごし

生活していく中で

傷つけたり 傷付いたりして

感動したりながら

たくさんの楽しいこと、悲しいことが

あまりにもありすぎて

ごっちゃごちゃになってしまっていました。

自分が

本当に何を頑張っているのか?

何ために??

誰のために??

何が?本当に自分にとって大切なのか??

も〜う

何が何だか

訳がわかんなくなってしまいました。

ひたすら

15年ぐらい 全力疾走し続けた

ツケがとうとうやってまいりました。

そんな時

海外に店を出す計画を聞き

ビッビィビィッー!!

これだ!!って思いました。(単純)

これに 残りの人生を賭けようと・・・

忘れられないビーチ

両親も 間近でずっと 自分を見てきて

自分が いよいよ精神的に限界な状態ことにも気付いていて

もう 1度 

自分が海外への挑戦をしたいという想いをわかってくた。

自分はも中年。

両親はもう老人。

今生の別れになるとしても

せっかくの

たった1度きりの人生。

あとの残りは 思いのままに使いたい。

その覚悟を決めた。

準備期間も含め 足掛け約5年

その間に貯金も 何とか2000万貯めて 結婚もせず

彼女とも別れた。(この歳で、保証もない未来で 待たせられないし・・・)

そして

いざ!! 

挑戦!!

しかしながら

諸々 諸事情もあり

海外の話は 自分から降りることにしました。ぴえん。

ハワイの海を見ながら

おっさんが 自分のかけてきた5年の歳月や 命を賭けてた挑戦が

儚く終わるのを知って

泣いてたことは誰も知らない。

もし自分が他人で見てたら だいぶ引く

ましてや世界的リゾートのビーチで

おっさんが一人で泣いてんのはね〜

ヤバすぎる。

本当にやりたいこと

日本に戻って 時間も経ち

落ち着いて

冷静になって

あらためて きちんと 自分と向き合い直したときに

海外も好きで憧れるけど  

日本を離れてまで 本当にやりたいことって なんだろう?? 

逆に 外国に行ったことで 地元の石川や日本の良さを再認識ことができた。

やっぱり自分は石川県を愛しているんだな〜。

日本も〜。

結局 自分は 外国に住みたいわけじゃなかったんだ。(今さら??

理想は 石川県にベースにして住みながら美容師を続けること!

そして 1年のうち1〜2ヶ月くらい

世界のどこかを(日本のどこかでも良い)

旅したいんだ。

ワクワクしたい 刺激がほしい、

もっと色々なところに行きたいし

様々な文化に触れて

たくさんの人たちに 出会いたい。

そのために

もちろんお金も欲しいし ガッツリ稼ぎたい。

モテたいし パートナーが欲しい!!

でも もしかしたら

実際に その夢を叶えることより

その夢に 向かう努力と挑戦こそを 

自分はやりたいんだ。

あーだ こーだ ぶつぶつ言いながら

全然上手くいかなくても

試行錯誤しながら 

ひたすら挑戦する日々と、その時間こそ が 

何よりも 自分のしたいことなんだ。

変態ナルシストです。

ただただ 好きな人に好かれたくて

そのことだけに 自分の全てかける。

死ぬまで。 

以上。

単純だけど これが なかなか いと難し・・・

2,000万の使い道と 生きることの意味

ここまで ダラダラ長い 自分のプロフィールを読んでくださり

また あなたの 人生の貴重〜な お時間を

ここに使ってくださって 本当にありがとうございます。

何かの縁に 本当に感謝いたします。

40歳を越えた今でさえ 自分が 生きる意味や

まだまだ 誰かのために 何か役に立つことが できているのか??

を まったく確立出来ていない チャラい中年ですが

少しでも これからは 何か人様の役に立つ生き方をしたい!

って

ほんのちょっとだけ 思っておりますので 

よろしくお願い申し上げます。

ABOUT ME
浜田裕樹
ロンドン留学や東京で美容師としての修業を積んだあと 愛する地元である石川県に戻る。1度はハワイに移住を考えるが断念。 今は、ワクワクする人生を過ごすため  今後の夢は、石川県をベースに美容師を続けながらも 毎年1〜2ヶ月は旅に出る生活をすること。 詳しいプロフィール